ぎ、ぎぃ、古い寺のお堂の床が軋む。
床板は長年使われ続けたせいで痛み、いつ抜けてもおかしくはない程である。
ぎしり、その床の上を歩くのは一人の坊主であった。
ひげを蓄え、つるりと頭を剃った年取った爺である彼は、一匹の猫を飼っていた。
もう亡くなった姉がことさらに可愛がっていた猫を、彼もずっと可愛がっていた。
坊主は幼い時分から仏門に習い、親に顔を見せることなどほとんど無かった。
それで良いと思っていた、僧というものになろうと決めた時から、親は仏であると感じていた。
故に彼にとって大切なのは仏の教えだけであり、それ以外は必要ないものだと信じてひたすら勉学に励んでいた。
彼は仏の教え通り、全てに慈愛をもって接していた。
ただ一人、彼の姉だけを除いては。
姉は気ままな人間だった。生真面目な人ばかりだった生まれ故郷においてただ一人、自分の世界で生きているような人であった。
決して怠け者という訳ではなかったが仏や神というものを信じようとはせず、彼がいくら仏の教えを説こうとも耳を貸そうとはしない。
坊主は心底姉を嫌い、そして不可解に思っていた。
当の姉といえば、別段弟である坊主を嫌うでもなく、ただ笑って毎日を暮らしていた。
母が死に、父が死んだ時も彼女はただゆるりと笑って暮らしていた。
彼が村の寺の住職を継ぐように決まった時も、彼女は何も言わず、笑うだけであった。
そんな姉が嫌いで恐ろしくてたまらなかった。
何故恐ろしいのか、姉は神仏の加護を受けている訳でも何でもないただの人間であるのに。
いつの間にか姉は坊主の中で畏怖の対象となっていった。
それは例え自ら望んだことであったとしても仏教に縛られ、無欲でいなければならなかった己と正反対な姉に対する憧憬であったのかもしれない。
そうでなければ白猫を目の前に差し出し、こいつを預かれ、名前はしろべえだと突然言った姉に逆らわなかったのは何故なのか。
細い手足。整った顔立ち。豊かな黒髪。世の中の女性が羨む全てを持っていながらそれに頓着することもなく。
いつしか彼女はもののけあやかしの類ではないかと村人が訝しむほどに不可解な生き方をしていた。
しかし彼女も人である。死はあっという間に彼女を飲み込んだ。
そんな姉が死んだのは、ある雨の日であった。
いつものように突然押し掛けて、軒先で笑って言ったのだ。
「私はもうすぐ死ぬ。最後にお前の顔を見たいと思ってな、来てしまった。」
そう笑う彼女の姿は相も変わらずりいんと伸びた背筋の美しいままだった。
これから死ぬなど感じられないくらいの強さを持っているのに、何故そのようなことを言うのか。
にぃ、にいとしろべえも何かを感じたのか必死に訴えるように鳴いている。
「お前らはこれからも生きろよ、まだまだ先があるのだから。」
ぱっと散り際の満開の花のような笑顔でぱたぱたと駆けて行ってしまった。
まさか本当ではないだろうと思いながらもじいと姉の駆けてった山を見上げる。
姉の背中が見えなくなってしばらく、雨が降りだした。
ひっそり泣くような霧雨は一晩中降り続き。
あくる朝すっかり晴れた軒先に落ちていたのは、姉がいつも身につけていたただ一つの簪で、
ああ姉は本当に死んだのだと。
しろべえと一緒に音もなく泣いた。
大嫌いな姉のために二人して涙を流してから、どのくらい経っただろう。
その日から、このおんぼろ寺でずっと二人で生きてきた。
時は移ろい、一人、また一人と村から人がいなくなるのをゆっくり眺めてきた。
「もうこの床も張り替えねばならんな、なあしろべえよ。」
にぃ、それに応えるように猫が鳴いた。
くるりとした大きな目が特徴の愛らしいこの白猫は、坊主がこの年になってもまだ元気でいつも坊主の後ろをちょこちょこ歩いていた。
その仕草に目を細めながら坊主はふうとひとつ息を吐いた。
「ここらも人が少なくなって、淋しくなったの。皆何処へ行ったのやら。」
にゅう、甘えるように頭を足にすり寄せるのを、抱きかかえて撫ぜる。
若者は都へ発ち、残された老人は彼岸に旅立つ。帰って来るものなど、無きに等しい。
「儂も老いた。姉も先に旅立ち、村はだんだん寂れてゆく。長く長く続いたこの寺の歴史もここで終わり、か。」
かつては荘厳であったのだろう、天井には見事な細工が為されてあったが、それを彩る丹は剥げてみすぼらしい。
手入れの行き届かなかった床下の柱など苔むしてしまっている。
ただ一つ、御本尊だけは未だに美しく輝いている。けれどそれも坊主がいなくなればすぐにでも曇ってしまうのだろう。
未練はない。跡取りもいない。愛着のあるこの寺が自分と共に終わるのも、それはそれで良いと思っていた。
「悔やむらくはしろべえ、お前を残してゆくことだ。」
にゃあ、するりと坊主の腕からすり抜けて枯れ葉を追うようにじゃれて遊ぶしろべえはまだ若々しい。
これこれ、あまりはしゃぐでないとしろべえを追うように石畳を歩く、坊主が思うように動かない体を引き摺って歩くのをじいと見ていた。
じゃりじゃり足音が響く。
村の男だ。粗末な衣服で、白髪混じりのひげをざんばらに生やしている男は坊主を見るとぺこりと会釈して口を開いた。
「坊さん、明日ぁ経あげに来てくれやせんか。うちのばあさんの三回忌だもんで。」
「もうそんなに経っとったかなぁ。分かりました、明日の昼ごろにお伺いしますんで。」
ぺこりと頭を下げてしょぼついた目で男の後姿を見送ってから「さ、本尊を磨こうかの。」ふらつく足と海老みたいな腰で石畳をゆっくり歩いた。
冬も近い朝は冷える。
老体には厳しい寒さに震えながら坊主は煎餅布団から身を起こした。
途端、ぐきりと嫌な音。
「あだ、あだたたたたた・・・。」
坊主の様子がおかしいことに気づいたのか、布団の端で丸まっていたしろべえがぱっと目を開けてにゃあ、とひとつ鳴いた。
「ああ、心配するな、腰痛めただけだ、休みゃあ治るじゃろう。」
四苦八苦しながらもう一度布団に潜り込む坊主を黒目がちの大きな目で見つめて、立ち上がりてとてと歩いてがりりと襖を引っ掻いた。
「しろ、しろべえ何処行くか。」
にー、と答えるように鳴いてから坊主の自室の襖を少し開け、するりと出てから爪で引っ掛けて襖を閉めて行ってしまった。
一方の男の家では昼を過ぎても坊主が現れないことに皆不審がっていた。
「あんた、こりゃ坊さんに何かあったんじゃなかろうかね。」
「あの坊さんも年だから、動けなくなってるんじゃなかろか。」
ひそひそ囁く声に男が寺まで行ってみようかと思案していた時、ひかえめに板戸を叩く音が聞こえてきた。
「ああよかった坊さんじゃないかね?あんた見てきなよ。」
妻に促されて板戸を開けるが、そこにいたのは年取った坊主ではなく、小坊主の装束を着た少年であった。
「あんれ、あんた何処ん子だぁ?」
「坊さまの代わりに経をあげに来ました、安曇の寺の小坊主です。」
「そうかぁ、坊さんはどうした?」
「腰痛めて動けんそうです。経は僕があげますからに。」
あっけにとられる一同を尻目にすらすらと経を読む小坊主に、あんれこんな子おったかなと男は首を傾げたが、まあええかと思いなおした。
坊主はうつらうつらとまどろんでいた。
体は日々弱っていく。昨日出来たことが今日出来ず、今日出来たことが明日は出来ない。
おぼろげな記憶はほんの数日前のことも思い出させてはくれない。
ああ、もうお迎えが来るんだろうと半分の夢で溜息を吐く。
半分の夢で白猫が小さく鳴いた。
しろべえかい、訊けばにーと応えた声がいつの間にか「うん。」少しばかり高い子供のものになっていた。
色の薄い髪をした、背の小さな子供。ああと坊主は息を落とし、
「しろべえ、お前猫又だったんか。」
こくりと頷く彼の頭をわしわしと皺だらけの骨ばった手で撫ぜる。
しろべえは嬉しそうに目を細めてされるがままになっている、ああ本当にしろべえだ、お前いくつになっても変わらんなぁと坊主は笑った。
「お前がおってくれて嬉しかった。ありがとな、しろべえ。」
「儂はもう、長くない。」
「うん。」
「看取ってくれる人がおるいうのは、嬉しいもんだな。姉さまのことも看取ってやりたかった・・・。」
寝言のような、誰に言うともない言葉がぽつぽつ零れて高い天井に落ちていく。
「しろべえ、お前は儂が死んだらどうするんだ?」
「姉さまの所に行く。」
「そうか、お前にも家族がおったんか。」
ううん、首を振って否定。
「坊さまの姉さまの所。」
坊主は少し驚いたように目を開いて、すぐに懐かしそうに目を細めた。
「そしたら、これを持っていっておくれ。」
枕元の漆の箱に手を伸ばし、中から取り出したのは一本の簪。
色褪せてすっかり輝きを無くしたそれは、姉があの雨の日に置いていったもので。
ちりん、小さな鈴のついた意匠のそれをしろべえの手に握らせた。
ゆるりと目を閉じた坊主の傍でしろべえはただ何をするでもなく見ていた。
そうして暫く。眠る坊主の呼吸がゆっくり弱っていき、すうと息を引き取ったのを静かな目で見つめて、密やかに経をあげてから土葬にした。
一通り葬儀を終わらせたしろべえは、猫の姿に戻ると
ちりりと鈴の音を響かせながら、その昔坊主の姉が消えていった山へと歩を進めた。
村は廃れ、人は去る。
けれどいずれ新たに人が集まりまた村が出来る。
次にこの場所を語るのは、新たに村が出来た、その後のこと。
村の外れに寺があったことすら誰も知らないほどの時が流れてからに御座います。