鬼とは人の世にありて最も恐れられるモノ。
虎の皮を身にまとい、牛の角を持つ異能の者として口ぐちに語り継がれるモノ。
しかしてこの「鬼」は・・・
とんとんとん、とんとんとん、「ごめんくださりませ、ごめんくださりませ。」
とんとんとん、「ごめんくださりませ」とんとんとん、
「ごめんくださりませ」とんとんとん・・・
京の都には、鬼が出る。
そう、噂がたった。
帝の御子が伏せっておられる。
そうも、噂がたった。
こそりこそりと噂はひとりあるき。
いつしかこう、噂は変わった。
帝の御子が伏せっておられるのは鬼に祟られたからじゃ。
都の貴族の下男に文次郎という名の男があった。
幼い頃、顔も覚えておらぬ親に捨てられ、この屋敷の主人に拾われ十数年。
物心ついた時からずっと屋敷で働いてきたため家人からの信頼も厚く、元来の生真面目さも手伝って屋敷一番の働き者と評判も高い。
武芸に秀で、しかし決して知恵が劣る訳でもなく、たいへんによく出来た男である彼は下男であるにも関わらず屋敷では一目置かれる存在であった。
さて屋敷の主である芳直は位は高いが小賢しい男として貴族達からは敬遠される存在であった。
元々位の高い貴族ではなかったものの、あれやこれやと帝に取り入り敵対者を蹴落とし、やがてそれなりの地位を手に入れるに至った。
芳直に近寄りたくは無いが邪魔である、というのが貴族達の共通見解。
故に、これは必然。
帝の御子が病に伏せっているということは皆知っていること。
既にお祓いも祈祷も試みてはいるものの一向に良くなる気配が無い。
さてどうしたことだ、これは一体何の仕業であるのかと首を捻っておったところにくだんの噂。
誰が流したとも知れぬ噂はここに来て帝により真実であるとされたのだった。
帝は家臣に京の鬼を打ち取るよう命じたが、誰も引き受けようとはしない。
唯一物忌みで欠席していた芳直に厄介払いとばかりに押し付けられたのだった。
帝からの命とあっては断ることも出来まいと、参列した貴族達は内心ほくそ笑んだことだったろう。
都の夜は暗い。
いつもなら酒を飲んで酔っ払い、路端で騒ぐ不届き者もいようものだが
生憎鬼が出るとの噂もあってかしん、と静まりかえっている。
「夜分に失礼致します、私御所からの使いで御座いまして、こちらの主人に文を届けるよう命じられました。」
つい先程まで扉を叩いていたやけに腰の低い男は文次郎に文を手渡すとそそくさと夜闇に消えて行ってしまった。
左手にぶら下げていた橙の灯りだけが遠くでゆらゆら揺れるのを見送って、文次郎は門を閉じる。
蝋燭の灯りだけでは心許ないほど屋敷は広く、暗い。
それでも迷うことなく芳直の寝屋へと歩を進める。
貴族の朝というものは早いもので、夜も明けぬうちから朝廷へ出仕せねばならない。
既に芳直も身支度を終えていることだろうと戸を叩く。叩くたびにごつごつと音を立てる板戸を開けて中の人物に声をかけた。
「芳直様、御所から文が届いております。」
当の芳直といえばなにやら書きものをしていた様子で、文机の上には硯といくつかの草紙が散らばっている。
ゆらゆら揺れる焔にぼうと照らされた室内で、影を落とすように芳直はいた。
「文が?はて、いったいどうしたことやら。」
がさがさと骨ばった手で文を開き、ふうむと唸ったきり黙りこんでしまう。
文次郎は主人の様子に厄介事だろうかと眉を顰めながら退室した。
夜が明けても、芳直は部屋から出て来はしなかった。
もともと物忌みで欠席していた身、誰から咎められることもない、むしろ外出しないのは当然であったのだが、文次郎にはあの文のせいであるとしか考えられなかった。
次の日も、その次の日も。芳直は部屋から一歩も動こうとはしなかった。
流石に只事ではないと親族らが部屋を尋ねるも、出てくる時には誰も彼もが青い顔。
ただの下男である文次郎はいったいどうしたことかと手出しも出来ずやきもきしながら日々を過ごすばかり。
三日が過ぎた頃、女房達を連れた芳直の北の方が文次郎を呼びつけた。
きりりと上がった眦がきつい印象を与える美人で、性格も違わずきついと聞いている。
目の前でかしこまる文次郎を見、ぷくりとした色鮮やかな口唇をきゅうと歪めて声を投げかける。
「ぬし、芳直様に拾ってもらった子であろう?」
「は、左様で御座います奥方様。」
「芳直様は今大変にお困りなのは、知っておるかえ?」
「存じております。」
「ならば、芳直様を助けてやってはくれんかの。」
「私に出来ることであれば、なんなりと申しつけください。」
今日までここに置いてくれた恩を返すのは当然と文次郎は答えた。
北の方はその答えに満足したかのようにお付きの女房の一人にこそりと耳打ち、再び文次郎を見据えた。
「ならば、ちこう寄れ。」
紅で彩られた衣から伸びた白い手が手招きするのに従って廊下へと歩を進める。
途端、後頭部に鈍い衝撃。くらくらする視界の向こうで、北の方はくすくす嗤っていた。
意識が落ちた文次郎を北の方は冷徹に見つめ、
「さ、はようせい。」
周囲を取り囲む衛士達に告げた。
文次郎が意識のないまま縄をかけられ引っ立てられたのは芳直の目の前であった。
水を被せられ意識を取り戻した男を襲ったのは急激な状況変化による困惑であった。
「芳直様、これはどういうことです。」
縄をかけられ動けなくされた自分の状況を把握しようと目の前の人物に尋ねる。
芳直はというとそんな文次郎の様子に頓着することもなく言う。
「うむ、ぬしには死んでもらうこととなった。」
あまりのことに絶句する。
隣で嗤うのは北の方。先程と同じ紅の唐衣のままで扇で口元を隠しながら芳直に語りかける。
「芳直様、あの男いかが致しましょ。」
軽蔑と好奇の目に晒されることは男には耐えがたいことだった。
「ふざけるな、俺は今まであんた達のために身を粉にして働いた、それもひとえに俺を育ててくれた恩あってのことだ。その俺が何故殺されねばならん!」
ふうむと芳直は困ったように口を曲げて答える。
「麿は鬼を殺すよう命じられた。帝の命は絶対、しかし麿には鬼を探すことも殺すことも出来ぬ。ぬしが鬼として殺されよ、さすれば帝の心も安らぐであろう。」
男は吠えた。ありえない、あってはいけないことが今目の前で起ころうとしている。
自分の育ての親とも言うべき人物が、何故、何故、何故?
「そんなことで、俺を殺すというか。咎無き者を殺すというか。最早お前は人に非ず!」
「人に非ざるのはそちじゃ。さあ、早う首を刎ねい。」
その言葉に、男は狂い猛った。
縄を引きちぎり、今にも自分の首を刎ねんとする刀を奪い取る。
今しがた刀を奪った相手を殴り倒し、そのまま芳直へと一直線に走った。
くすくすと芳直の傍らでことを見て笑っていた奥方や女房達は男が走って来るのを見て蜘蛛の子を散らすように逃げだした。
紅やら翠やらの色鮮やかな衣の裾がひらひら踊りながら奥へ引っ込むのが吐き気がするほど胸糞悪い気分にさせられた。
芳直は一人逃げ遅れ、言葉にもならぬようなものを口の中でもごもごと呟いている。
「芳直・・・もう一度訊く、何故俺が殺されねばならぬのか。」
「そ、それは麿が鬼を退治せよと御上に命じられたから・・・。」
「芳直、それはつまり俺が鬼であればよいということか?」
「いや、そのようなことを言っておるのでは、」
「そうか、解した。」
「おお、分かってくれたか。流石は我が息子・・・」
ぶつりと。その肉を、その骨を、絶ち切った。
喉笛からは血と呼気が溢れ出し、混じり合い、血泡を作って流れてゆく。
「いやああぁぁあぁぁぁぁあぁ!」
びくびく痙攣しながらその命を終わらせつつある芳直を睥睨し、今の今まで笑っていた女房どもに刃を向ける。
「おのれ、下人ごときが!」
芳直が殺されたことにようやく反応したのか衛士が斬りかかるも、根っからの武人であった男と貴族の地位に溺れていた衛士たちでははなから決着は見えている。
やがて血みどろの地に立つのは男だけ。
その爪は鋭く家人を震え上がらせ、その瞳はぎょろりと天を睨めつける。
恨んでやろう、祟ってやろう。
呪ってやろう、壊してやろう。
お前らが俺に望んだことだ、俺が鬼であればよいのだろう。
ならば鬼と為ってやろう。
俗世の禍この身一つに引き受けて、お前らに祟り為す鬼と為ってやろう。
京の都には鬼が出る。
曰く、鬼とは丑寅の方角より来たりて禍を持ち来るものなり。
知っておりましたか?
鬼とは、人間のことだということを。
知っておりましたか?
何故、牛の角を持ち、虎の毛皮を身につけた姿で描かれているのか。
さあて、なんのことやら。
私にはわかりませぬ。ただ、乞われるまま話をするのみですもの。