さあ次だ次だと、そう急かさないでくださいまし。
そうですわね、次は座敷わらしの話などいかがでしょ。
うふふ、ああもうその手の話は飽いたと申されるのですか、まあそう言わず
聞いていってくださいな。
一人のワカバと、一人の男の話に御座います。
男は、旅をしていた。
何も旅が趣味だという訳ではない。
一生に一度の行楽、お伊勢参りを町民代表として終えて来たところだった。
懐には、濡れないよう油紙に包まれた伊勢神宮の御札が人数分入っている。
皆どれだけ私の帰りを待ちわびていることやら、と男は帰路を急いでいた。
山の麓にさしかかった時、日が暮れ始めた。
山中で夜を過ごしてはならない、これは旅の基本であった。
早く帰らねばならない、だがそれも命あっての物種だと、男は麓で夜が明けるのを待つことにした。
どこか一晩過ごせる場所はないか、男は辺りを見回す。
だがここらは廃村なのか人っ子一人おらず、点在するのは昔打ち捨てられたような古い家ばかり。
仕方が無い、雨露をしのげるだけよいと、男はそのうちのひとつに入った。
古い、古い家だ。
何時建てられたものなのか。柱は煙でくすみ、焦げたような茶とところどころの苔の緑でまだらが出来ている。
しかしもとのつくりがしっかりしているのか、まるで崩れたような様子は無かった。
「お邪魔します、一晩の宿を借りさせて下さいな。」
誰に言うともなしに呟く。
家人がいないことは分かっていたが、それでも礼儀として言った、その途端。
開け放たれた襖の向こうの奥座敷。
そのぼろぼろの畳の上に、何かぼんやりとしたものがいることに気がついたのだ。
ぼんやりとしたものはやがてゆっくりと子供の形を取る。
子供は確かにこちらをじいっと見つめていた。
こちらが声をかける、その前に子供は口を開いた。
「この家にいちゃ、いけないよ。」
真剣な目で、そう言った。
「お前は、いったい・・・。」
「この家にいちゃ、いけないよ。」
もう一度そう言って、そしてふらりと消えた。
男はそう言われたものの、もうとうに日も暮れ周囲の家はすでに崩れていて夜を過ごせそうにもない。
まあ一晩だけならそうたいしたことも起こらぬだろとたかをくくってそのまま残っていた囲炉裏に火を入れた。
灰が湿気っていたのかなかなか火はつかなかったが、暫くするとぶすぶすと薪代わりの枝がくすぶりはじめた。
じりじりと燃える火を見ながら男はこっくりこっくりと船を漕ぎだした。
今までの長旅で疲れていたのだろう、火を見なければと思いつつもうとうとし始める。
と、不意にきぃ、きぃという音で目が覚めた。何事かと辺りを見回せば、先ほどの子供が太い梁に座って足をぶらぶらさせている。
その体が揺れるたび、梁がきぃきぃと軋んでいたのだった。
「この家にいちゃ、いけないよ。」
子供はじいっとこちらを見つめている。
男は気にしないように気にしないようにと努めたが、どうにも気になりつい声をかけてしまった。
「おい、お前は何がしたいのだ。私は一晩だけでここを発つ。私が気に入らぬのかもしれないが、一晩だけ我慢してはくれまいか。」
きぃ、きぃ。子供は相変わらず足をぶらぶらさせながらこちらをじいっと見ている。
そしてやはり同じことを言うのだ。
「この家にいちゃ、いけないよ。」
ぎぃ、その音を最後にまた子供はふらりと消えた。
あれはワカバなのだろうと男は思った。ワカバは家の梁の上に棲むという。
ワカバがいたということは、この家は一度ひどく困窮したのだろう。
家に食うものが少しも無い程に困窮した時、いわゆる「間引き」が行われることは多々ある。
その「間引き」で選ばれた子供がワカバになり、その家の梁に棲みつき家を繁栄させるのだと聞いたことがある。
まあよくあることだと、男はあの子供を少し可哀そうだと思いながらも再び船を漕ぎ始めた。
ぱちぱちと火の粉が爆ぜる音。
ほどよく暖まった室内は眠りを誘う。
男はやがて深い眠りへと落ちていった。
ぎしり、ぎしり。
不穏な音がして男は再び目を覚ました。
またあの子供かとゆるりと目を開ける。
予想通り、子供はいた。目の前に。
「この家にいちゃ、いけないよ。」
ぎゅ、袖を握る。
「私は眠いんだ、寝かせてくれ。」
「この家にいちゃいけない。早く出て。」
「一晩の宿も貸さないつもりか、少しくらい良いだろう。」
ふるふると子供は首を振る。
「この家にいちゃいけないよ。」
あまりにも同じことを繰り返すので男はとうとう根負けし、荷物を纏めて家を出た。
家屋から一歩出て、くるりと後ろを振り向く。
「これで文句はないだろう、お前の言うとおり出てやったよ。」
そう言って子供を見る。
子供はやはりじいっと見つめている。
と、ぎいぃと何かが軋む音がして突如今までいた家が崩れ落ちた。
ばきばき、がらがらと目の前で崩落する家屋。
きぃ、きぃと梁が軋んでいたことを思い出す。
この子供があまりに判然と見えるものだから忘れていた、実体などないはずの子供の重みで梁が軋む訳などなかったのだ。
今の今までここにいたのだと、実感して恐ろしさが急に込み上げてきた。
子供は崩れ落ちてゆく家をじいっと見つめている。
その瞳に浮かぶのは生きていた記憶の染みついた家が壊れる悲しみか、自分を縛りつけていた家が無くなった喜びか。
どちらにしてもこの子供が自分の命を救ってくれたことに変わりはなかった。
「お前、私を助けようとしてくれたのか。」
きょろりと大きな目でこちらを見上げる子供。
こくり、小さく頷く。
これから超える山の綾線にゆっくりと登ってゆく日の光が、柔らかく辺りを照らしてゆく。
すっかり崩れてしまっていた家屋がぱちぱちと音をたてて燃えだす。
囲炉裏の火が移ったのだろう。
幸い大火にもならず、くすぶる程度で終わった。
火種はしばらく残るだろうが燃え広がる程ではない。
がらりと今一度均衡を崩した木材が小さく火の粉を散らせる、それがこの家の終わりを表わすようだった。
男はしばし呆然と崩れた家を見ていた。
からり、小さな音がしてそちらを見やる。
子供が持っていたのは小さな茶碗。
土まみれで、地面から掘り出した物のようだ。
「お前の茶碗か?」
こくり。頷く。
茶碗の隣。白いもの。
白骨化した、子供のものの、
「お前の、骨か?」
こくり。
茶碗を抱えて目を伏せる。
小さな小さな体で、ずっと一人だったのだろう。
居るべき家ももう無く、これからどうするのか。
「お前、あてがないのなら私の家に来るか?」
自然と、そう訊ねていた。
驚いたように目をまん丸にする。
「私はこの年まで独り身でな、話し相手が少なくて寂しい思いをしていたんだ。お前が私の家に来て、話し相手にでもなってくれればありがたい。」
「俺、何もできないよ。あんたたちが望むような富なんてもたらせやしない。」
険のある、切れ長の瞳が見上げる。
「なんにもできなくたっていいよ。」
あまりに小さな背中を撫ぜる。
ずっと昔、この村にまだ活気があったころからここにいたのだろう。
「独りは寂しいもんだ。私の家へおいで。狭い借家だが、それなりに居心地はいい。」
どうだ、来るか?
訊けば、長い長い沈黙の後に小さく小さく肯きが返ってきた。
「ようし、じゃあ行くか。お前の名前は?」
差し出した手をおずおずと取って、子供は答える。
「きり丸。苗字は知らない。」
「私は半助だ。苗字は土井。これからよろしくな、きり丸。」
安心させるように笑えば、つられて子供も笑った。
いかがです、これが男とワカバの出会いの話。
今までのものと一風変わっておりますでしょう?
この男、後にまた変わった出会いを果たすのですが、それはまた次の機会に。