あるところに一匹の狐がおった。
その狐は人をたぶらかし、そしてまるで戯れのようにとって喰らっていた。
その体躯は他のそれとは一線を画すほどに大きく丈夫で、また非常に狡猾でもあった。
そのため狐は近隣の村人から恐れられていた。

あるところに一人の天狗がおった。
その天狗は心優しく、村人が雨が足りなくて稲が育たぬというなら雨を降らせ、日が足りなくて稲が育たぬというなら日を照らせた。
山に迷い子あればその手をひいて送ってやり、人を喰らう獣あれば諭して下がらせた。
そのため天狗は村の守り神として崇め奉られ、たいそう信仰を集めていた。



ある時、狐はもといた村をふらりと出、ふらふらとあてどもなく彷徨うように新たな住処を探しに出た。
狐の目に付いたのはある山の麓の村である。
山一つ越えた村が長く続く慢性的な飢饉で苦しんでいるというのに、この村はその様子が全く無い。
いったいどうしたことかと人の姿に化け、村の男に話しかけた。
「おい、私は旅の者だがこの村は随分と裕福なのだな。山向こうでは飢饉のせいで人死にがでているというのに、ここではそんな様子が欠片もない。これはいったいどういうことだ。」
「あんた旅の者かね、なあにこの村は山神さまが守ってくだすっとる。お陰で儂らは飢えたことなぞ一度もないわ。」
「山神さまとは偉いのか。」
「偉いも何も、儂が生まれるずっと前からこの村を守っておる優しい神さまよ。普段は山におるから山神さまと儂らは呼んどる。」
「山神さまがいなくなったらどうなる。」
「そりゃあ困るの。儂らも山向こうの村と同じ運命を辿るだろうて。」
「ならばそれを私がしてやろう。」
狐は変化を解き、男をばりばりと喰らってしまった。

その夜、男が帰らぬと村は大騒ぎであった。
山神さまのおかげで怪我も病気も行方知れずも天災も、死に至る全ての禍に今まで縁の無かった村人達は男が消えたことにひどく敏感に対応した。
血痕と男の着ていた布の切れ端だけが見つかったことで
村人は口々に人喰いの獣の仕業だとうわさしあい、山神さまに助けを求めるのにそう長い時間はかからなかった。
山神さまが奉られている祠。そこで村人は山神さまと会話をするのだという。
山へと入ってゆく村人たちの後をこっそりつけながら、狐は思った。
山神とはどんなにか酔狂な者なのだろうか、こんなすぐ死んでしまうような生き物を守るなどと。
やがて山の中腹にさして大きくない祠が現れた。
村人が常日頃から行き来しているようで、周りの土は踏み固められ、ようく手入れがされてあった。
狐は手ごろな茂みに隠れて山神が姿を現すのを今か今かと待ち焦がれた。
村人たちが見守る中、一人の男が歩み出ておごそかに祠を開けた。
が、そこからは誰も出てこない。
祠の中にいるのかもしれないが、こちらからでは全く見えない。
狐は山神とやらを喰らってしまうつもりであったから、山神が姿を現さないことにひどくがっかりした。
代表の男がひとことふたこと祠の向こうと言葉を交わしたかと思うと、すぐに祠の扉は閉じられた。
村人が安心した様子でざわめきあうのを見て、狐はひどく苛々した。
これまでは見せしめのように一人か二人、無残にも喰い散らかしてやれば村人は恐れ慄き、悲しみにあけくれていたというのに。
ああ、ああ苛々する。いっそこの場で村人たちの目の前に飛び出し、そのまま皆喰ろうてやろうか。
それもよい考えだと狐は笑った。
そうすれば山神とやらも出てこざるを得ないだろう。
神として奉られる者は自分の住処が人間の血で汚れるのを嫌う。
いぶりだしてやろう、山神とやら。狐は胸中で呟いて、すぐに行動に移した。
音もたてずに、一番屈強な男に忍び寄る。
そうして狙いをすまし、ぶつりと一息でその喉笛を食い千切った。
鮮血が溢れ出し、狐の口を真っ赤に染める。それが不快だと言わんばかりに狐は千切った肉片を憎々しげに吐きだし、赤い目でぎろりと何が起きたか理解し得ていない人々を睨めつけた。
「田吾作が、喰われ、」
その悲鳴は狐によって遮られた。再び跳躍してその喉を喰い破ったからである。
ぎゃ、ぎえ、悲鳴と共に増えてゆく血水の中で狐は踊り狂い、笑い狂った。
「はやく出て来い、山神とやら。さもなければ村人全て喰らうてやろうぞ。」
げらげらげら、返り血でその身を赤く染めた狐が人間のように嗤う。
「ひいっ、助けて、助け・・・」
山吹の小袖を身につけた女に狙いを定めて飛びかかる、
ふわりと白い衣が宙を舞う、
瞬間、狐は後ろに飛びさすっていた。
女と自分の間に割って入った何者かを見極めるためであった。
「お止め、狐。」
凛とした、柔らかな声。
それが誰かは、今しがた襲うところだった女が教えてくれた。
「ああ、山神さま!どうか、どうかお助け下さい!」
助かった、その歓喜に身を震わせて叫ぶ女に山神と呼ばれたそのモノは、
「お逃げ、他の者を連れて。里へお逃げ。」
どこまでも優しい声で言った。
女はこけつ転びつほうほうの体で逃げ出す。恐怖に体が竦んでいた他の者もそれにならった。
狐は、もう彼らへの興味も何も失っていた。
狐の思考を占めるのは、どうやってこの山神とやらを喰らってやろうかということばかりであった。
山神は悲しげな顔で狐を見る。
「山の神は大抵女だと相場が決まっているものだが、お前は男なのだな。」
狐は口端をにいと釣り上げて嘲るように笑った。
それには応えず、山神は問う。
「狐、狐。お前は何故人をたぶらかす。何故人を喰らう。見たところお前は人の言葉を解し、人と為ることもできるではないか。何故人に害を為す。」
「知れたことよ。私は人が嫌いだからさ。」
吐き捨てるように狐は笑う。
それを見て山神はますます悲しげに顔を伏せる。
「ああ、狐よ狐、お願いだから止めておくれ、私は人が悲しむのは見とうない。」
「私の知ったことではないな、何故その願いを聞かねばならぬ。私に益など無いその願いを。」
「ああ、ああ。後生だから止めておくれ。人をひとり喰うのを止める代わりに、私を喰ろうておくれ。」
「ほう、それはまた奇怪な願いであることよ。人間一人にそこまで価値のあろうものか。」
「あるとも。私の命などくれてやる、だからどうかどうか人を喰うのを止めておくれ。」
狐はこの者と言葉を交わすうちにだんだんと殺すのが惜しくなってきた。
この者は今まで言葉を交わしたどのあやかしとも人間とも違う気がしたのだ。
自分が今の今まで村人を殺す姿を見ておきながら、それで報復する気配もない。
これは、神などではない。
狐はそう悟った。
神は、力を振るう。それは自己のためであり、他者のためである。
そしてその力は慈しむもので無く傷つけるものであるのが、狐の知る「神」であった。
しかし目の前のそれはただただ自己を犠牲にすることでしか己の在り様を表現することを知らぬいきものの姿だった。
狐は今までとは違う笑みを浮かべ、地べたへどかりと腰を下ろした。
「お前は何故、そんなにも人を庇う。人など、弱くてちっぽけな生き物ではないか。」
「それは、私が人間であったからだよ。私は僧でありながら悟りを開けず己の心の弱さ故に天狗道へ堕ち、そうして天狗と為った。」
背にある大きな白い羽と、白い服。ゆったりとしたそれは僧の身につけるものとは違う気もした。
「僧?お前は僧侶であったのか。それにしては袈裟も裳もつけず、まるで琵琶法師のようないでたちであることよ。」
く、く、く。狐は笑って言う。
「私はこの村の者全て喰らってやろうと思っていた。が、気が変わったわ。お前が代わりになるというその願い、きいてやろう。」
「ならば・・・」
何事かを言いかけた、それを制すように狐は言葉を重ねる。
「だが、今は気が乗らぬ。お前は私が喰らうその日まで、生かしておいてやる。」
くつくつと笑う狐の様相がぐにゃりと歪んだ。
ぐぐ、骨が歪み肉が増え、毛が消えてゆく。
ごきりと音がしたと思えばそこに立っていたのは藍刷りの着物を着た男であった。
白い羽がなく、服装が違うことを覗けばそれは姿見にうつしたように瓜二つであった。
「私の名は三郎。悪逆非道で知られた三郎狐よ。天狗、お前の名はなんという。」
「雷蔵だ。」
「ならば雷蔵、お前の命は今この場から私のものだ。その代わり、私はお前を喰うまでは人を喰らいもせず化かしもすまい。この姿がその証だ。」
それでよいな?
狐がそう居丈高に言うと、
雷蔵と名乗った天狗はゆるりと穏やかな笑みを浮かべてこくりと頷いた。



その翌朝に祠へ様子を見に行った村人は、無残にも殺された同胞の、そのむくろだけを見た。
祠へいくら呼びかけようとも山神さまが応えることはなく。
村人たちは口を揃えて言った。
あの化け狐が山神さまを殺してしまったのだ、そうして狐は今もどこかで笑っているのだと。







天狗は奪うことを知らなかった。
狐は奪うことしか知らなかった。
違う故に惹かれあうことが人の世にはあるらし。
けれどもこれが然ういうことなのかどうかは、私にはわかりかねまする。
私に分かるのは、ただあの狐はまんまと村から山神を奪った、その事実だけにございます。